Column 2016.09.06

芸術としてのチリワインの考察 ヴェンティスケーロ

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※ワイナリーと、メインとなる畑は、マイポ・エントレコルディヘラスの最南端、カチャポアルにほど近い場所にある。

 以前にチリを訪問した時、ヴェンティスケーロのアイコン・ワインのひとつ、ヴェルティッセ2007年を買った。しばらく自宅で寝かせておいた。若いうちは樽臭いワインだと思っていたが、それは勘違いだった。濃密で、もりもりとエネルギーが湧き上がる、豊かな、しかし品のある味。そして余韻の長さがすごい。知名度こそ低いが、チリのグラン・ヴァンのひとつだろう。産地はアパルタ。今まで何度も言ってきたが、ここはカベルネ・ソーヴィニヨンの産地ではない。だからヴェルティッセもカルメネールとシラーのブレンドである。産地と品種がぴったり合った味がする。しかしそれだけでは良いワインにはなりえても偉大なワインにはなれない。このワインは、80年代後半から90年代にペンフォールズのチーフワインメーカーだったジョン・デュヴァルをコンサルタントに招いて造ったものだ。当時のグランジやBIN707の前のめり感、ガッツ、ダイナミズムが懐かしい人にとってはたまらない。特別な才能だけが可能とするさじ加減。それがヴェルティッセからは感じられるのがいい。

成功をおさめてラグジュアリー・ブランドになると、多くのワインはエレガンスとフィネスを求めて、いや最悪の場合は口当たりのよい商業性を求めて、生々しいエネルギー感を失う。スーパータスカンしかり、ナパのカベルネしかり、だ。しかしヴェンティスケーロは創業1998年とまだ若い。オーナー、ゴンザロ・ヴィアルは果樹農家に生まれ、20歳の時に自分のビジネスを始め、養鶏、養豚、サーモン、フルーツ等で巨大な成功をおさめた、チリ食品業界の立身出世伝中の人物。「なににつけても保守的な姿勢を嫌う」と、チーフワインメーカーのフィリペ・トソ・ブルナは言う。だから彼のワインは、70年代のナパ、80年代のバロッサ(まさにジョン・デュヴァルが築いたものだ)やトスカーナ、90年代のサンテミリオンと同じ、アドレナリンのにおいがする。80歳にして、だ。
※チーフワインメーカーのフェリペ・トソ・ブルナ(左)と、ヤリ・ブランド担当ワインメーカー、セルジオ・ホルマザバル・バリエット(右)。フェリペは、この写真からも分かるとおり、自信に満ちあふれ、強力なオーラを放つ人だ。ヴェンティスケーロのワインからは彼の発するエネルギーを確実に感じとることができる。

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さすがにもともと果樹農家だと思うのは、「買いブドウでワインを造らず、まず畑にブドウを植えることから始める」というオーナーの考えだ。だからチリ各地に自社畑を多く所有し、ブドウの質こそワインの質の基本という、我々の知る真理を実践する。しかし話はそう簡単ではない。このワイナリーは、ヴェンティスケーロ、ヤリ、ラミラナの並行的な三つのブランドがあり、さらにその中にプライスポイント別のいろいろなラインがあり、さらにその中にレイダ、カサブランカ、マイポ、コルチャグアとさまざまな産地のさまざまな品種のワインがある、という複雑怪奇な商品構成をとる。同じ畑の同じ品種のブドウの数種類ものワインが同じ醸造所でひとりのフェリペ・トソによって造られたら、どれもこれも同じような味のワインになってしまうのではないか。いろいろとテイスティングして気づいたことは、フォーカスの甘さだ。客観的には、そして技術的には既にチリ最高レベルの品質であることは論を待たないにせよ、芸術的完成度に関して最後のひと押しが足りないのだ。その理由は私には明確に思えた。ワインの個性は栽培と醸造の密接な連携のもとに初めて成立するはずなのに、彼らのブドウ栽培セクションが単なる原料供給者になってしまっていることだ。往々にして新世界ワインに共通する問題なのだが、産地のプライスポイントがあってブランドがあってその従属物、単なる素材としてのブドウがあり、その単なる供給地として産地、畑があるという倒立した考え方はおかしい。

この疑問を投げかけると、「確かに今までは栽培は栽培担当者の責任で、ブランドごとに区画は分けられていたにせよ、大きな栽培上の違いがなかった。しかし一年前に組織改革をした。3つのブランドのワインは3人のワインメーカーの責任によって造られるが、各ワインメーカーと地域ごとの栽培責任者がチームを作り、毎週木曜日か金曜日に定例会議を行い、目的ワインにふさわしい栽培を行えるようになった」。それは大きな進歩だ。なぜ世の中で小規模ドメーヌのワインが人気かといえば、ひとつの理由は、畑、栽培、醸造が一体化しているからだ。それぞれの単純な総和以上の何かがそこに生まれるからだ。ここに、長くなるが、北大路魯山人の『なぜ作陶を志したか』と題されたエッセイの一部を引用したい。

「職人に生地を作らせて上絵を付けて、それで作家と称する陶人が立派に存在することは現代陶界の実状である。曾ては自分もそれに知らず知らず満足していた始末であった。だが作られた器物は職人が命ぜられるままに作ったもので、製作技術以外に内容に触れる所はない。技術的に一見綺麗には作られているが、それは決して美しいものではなかった。  宋窯を見せ、古瀬戸を見せれば、職人は直ぐにそれの外形をこそ真似はするが、その内容に大事な精神を欠くというのが避け難い状態であった。自分はここに他人の拵えた生地には非常な不満足を生じ、自ら土を採って作るのでない限り、到底自分の意に満たないという結論に到達した。  また一つの事実として、みずから全部を作らなくば自作品とは言えぬ。上絵だけを付けて、魯山人作の銘をつけて来たことが今更に辱じられた。それは詐欺の行為であったからである。生地を他人に作らせ、上絵付けを自分がするのは、合作であって自作ではない。殊に陶器は絵付けが主でなくて、土の仕事が主である。その土の仕事は無知な職人に任せて、絵付けを自分がしているなど、少なくとも作陶精神に於ては主客転倒している」。

では大組織は作品を作りえないのだろうか。製造プロセスの分断化は不可避なのか。魯山人は先の文章に続けてこう述べる、「と言って、自分は根本的に合作を否定する者ではない。合作の場合は同職程度の役者が揃う必要がある。木米の絵に山陽が合し、仁清の陶器に宗和が意匠することは合作の妙味を発揮する。しかしながら、作者が一方は美の教養なき職人であって、一方は素養ある人物であるとする場合は、根本的に合作の意義をなさぬ」(『魯山人陶説』中公文庫)。自社畑があり、ブドウ栽培とワイン醸造が「素養ある人物」にとって行われるなら、そして彼らが共通の「美」を目指しているなら、部分の総和より以上の全体が創造できる。それが人間の組織、社会的動物としての人間の強さである。
※最近の世界的トレンドである大樽熟成を、ヴェンティスケーロでも取り入れている。バローロでおなじみのガンバ樽はきめ細かく甘い味で、オーストリアの誇りストッキンガーはすっきりとクールな味。いかにも。
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ブドウの多くは自根であり、除草剤は不使用。だからヴェンティスケーロのワインはすべて腰の据わった味、フルーティさのみに偏らない複雑さ、タンニンと酸のみに頼らない構造が備わっている。そのことが理解できる人(もちろんそれは少数派だ、大多数の人はミネラリティということが理解できないばかりか、そのようなものは存在しないと言う)にとっては、そしてそのポテンシャルが十全に発揮できるまで待つ人には、ヴェンティスケーロの魅力は極めて大きい。

 最も注目すべきは4年ほど前に登場した『タラ』というシリーズ。ホワイト1、レッド2、レッド3と名付けられた、シャルドネ、ピノ・ノワール、シラー・メルロ・ブレンドである。産地はアタカマ。砂漠で造られるワインだ。アタカマは世界で最も乾燥した土地で、雨は降らない。しかし砂漠=酷暑ではない。ヴァレ・デ・ワスコは東から西にほぼ一直線に伸びる谷であり、海沿いの町ワスコから20キロ強内陸に入ったところにある畑はフンボルト海流の影響を直接的に受けて冷涼なのだ。降水量ほぼゼロかつ冷涼などという産地は世界を見渡しても他にあるまい。ブドウが灌漑によって生息する以外に生物が生きることができない場所なので、もちろん実質的にオーガニック。砂漠に虫もカビもない。
※ヴェンティスケーロのハイエンドワインたち。本文中では触れていないが、ヘリュ・ピノ・ノワールはカサブランカ産らしくソフトな味。他にはペウモ産カルメネールのアイコンワイン、エンクレイヴがあるが、これはいまひとつ。タラの圧倒的な個性の前ではすべてがかすむ。

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 これほど鮮やかな風味のワインは経験したことがない。ちょうど山頂から何百キロも遠くのものがくっきりと見えるように、空気中の水分子がほとんどないということが分かる、異様なまでに鮮やかで直線的なエッジが効いた香りと味。眼鏡をかけて乱視と近視を補正したら怖いぐらいに視野がはっきりとするという経験を多くの人が持っていると思うが、それをワインの味覚に該当させたらこうなるだろう。レッド3は失敗している(メルロと砂漠はおかしな組み合わせだというのは素人でも分かる)が、ホワイト1はとてつもなくすごい。たった1100本程度しか生産されない超限定ワインだから、「除梗も破砕も手で行う」。亜硫酸添加は極めて少なく(冷涼でpHが低いから可能だ)、無清澄・無濾過で、ワインは白濁しており、まるで発酵途中のようだ。とんでもないパワー、とんでもないミネラル感、とんでもない余韻の長さ。断言するが、これはチリ最上の白ワインだ。そして、これは明らかに芸術作品だ。ベーシックやミドルレンジ商品とは何かが根本的に違う。

 そうしたら、やっぱり。ヴェンティスケーロにも裏に「実験ワイナリー」があり、タラはそこで造られていた。覗いてみると、ラポストルと同じように、そこで働いている人たちの顔が楽しそうだ。仕込み中のワインをテイスティングしたが、ガルナッチャもマタロもダイナミックでポジティブ。マウレ産のガルナッチャとカリニャンの混植混醸ワインはそれに加えて垂直的な構造と尋常ではない複雑さがある。そこには「シラーは入れない。強すぎる」と言う。南ローヌやラングドックでも伝統的地中海品種にシラーを20%ぐらい入れると(そういうワインばかりだが)、それこそトスカーナでサンジョベーゼにカベルネをそれだけの量入れるとカベルネの強引な個性がサンジョベーゼの繊細さを覆い隠してしまうのと同じように、ガルナッチャのやさしさやカリニャンの陰影感を減じてしまいがちだ。シラーを入れると香りが派手になってインパクトが出るし、酸がシャープになるし、タンニンが強くかつ細かくなるし、形の上方垂直性が増すので、ついつい入れたくなるものだ。
※実験ワイナリーの中でみかけたステンレス製樽。アタカマのシャルドネの7割はこの樽で、残り3割はブルゴーニュ樽で発酵・熟成される。

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※ガルナッチャやマタロはプラスチック製の箱で発酵。実験ワイナリーで造るワインは「7割がハイエンドワイン、3割が本当の実験」。このセクションでのテイスティングは本当に楽しい。

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シラーを入れないことで得られるものは、非暴力性、非自己主張、非華麗さ、非偉大さ指向、非高評価狙い、つまり、地に足のついた温かみであり、おだやかな和の世界である。暴力的で破壊的なスペイン人が侵略するまでのチリでは、先住民は自然の摂理を尊び、自然から搾取するのではなく自然と共存するような暮らしをしていたことはよく知られている。そしてそれが日本の伝統的精神、古典的生活様式と共通していることも多くの人が指摘する通りである。だから私はガルナッチャとカリニャンの混植混醸に「シラーは入れない」という言葉を聞いた時、そしてワインにチリの自然の強さと人間の優しさの類まれなる結合を見出した時、チリワインはいま、マプチェ族の崇高な精神を自らのものとして取り戻しつつあるのだと気づき、目頭が熱くなったのだ。
※こういった商品ではないものをおいしいおいしいと言っても迷惑だろうが、それでもこれら実験ワイナリーで飲んだ瓶詰め前サンプルは今回のチリ取材の中でもトップレベルのワインだった。

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