コラム 2016.05.09

【ブルゴーニュ】ビオディナミの実践者 レミ・ジョバール

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※ムルソー村にあるドメーヌ・レミ・ジョバール。こちらは自宅兼セラーで、新しいオフィスは道を挟んだ反対側にある。

レミ・ジョバール (ムルソー)

 

 最近のブルゴーニュはずいぶんと味がナチュラルになってきた。妙なえぐみやひっかかりのない、繊細なディティール感のある、伸びやかなワインが多くなってきた。素晴らしいことだと思う。ひとかどのドメーヌならば、ブルゴーニュでいまだに除草剤や殺虫剤を使っているというほうが珍しいだろう。

 とはいえきちんとオーガニック認証を取得しているドメーヌはいまだに多くはない。ムルソーでは知る限り5軒。そのひとり、レミ・ジョバールは言う、「多くの人は、うちは90%オーガニックだ、とか、半分はオーガニックだ、とか言っているが、オーガニックに関してそれはありえない。1か0か、だ」。それは某著名ドメーヌがオーガニックを始めたにもかかわらずカビにおそれをなし、昨年挫折してもとのリュット・レゾネに戻ってしまったという話のあとの発言だ。「化学薬品に頼ってカビを抑制しようとしても畑にはカビそのものは生き残る。オーガニックにすれば根本的に解決できるというのに」。

※レミ・ジョバールさん。現在45歳。いかにもブルゴーニュのヴィニュロンロンといった雰囲気で、話す言葉も地に足がついている。オフィスの中にあるテイスティングルームで。

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 彼は「昔オーガニックのいちごやクランベリーを食べて、非オーガニックのものよりおいしいと思った。いちごで正しいことは同じく果物であるブドウでも正しいはず」と、2005年からオーガニック栽培へと進んだ。認証プログラムは08年から始め、2011年ヴィンテージ以降は認証を取得している。

 そのスタイルはいかにも現代ムルソーらしく、樽はひかえめで、贅肉が少なく、すっきりとしている。こってりバトナージュを効かせたクリーミーかつ新樽風味たっぷりのムルソーの時代は2、30年前だ。昔あるドメーヌで聞いたことを思い出す。「ドメーヌ元詰めの歴史は長くない。最近までムルソーのブドウ農家はワインを造ったらネゴシアンに売っていた。売るときには新樽に詰めて渡すのがルールだった。そのほうが高く売れた。元詰めをするようになっても同じように新樽にまず入れた。そうするものだと思っていたからだ」。こうしてみると、時代の流れは速い。とはいえ往年のスタイルにはよい点もあった。なぜならそれは醸造上の「スタイル」だったから、誰でも一定のレベルには達しえるものだったし、中身が問われることも少なかった。人が最新ファッションを着ているかどうかで判断されるのなら、それを買って着れば済むことだが、中身の知性で判断されるのなら話は簡単ではない。外見的な分かりやすい記号が影をひそめたら、ワインに残るのはテロワールであり、ブドウの質そのものだ。だからテロワールをよりよく表現し、ブドウの質を高めるためのオーガニックが今では重要となってくるのだ。

 ではそもそもムルソーとはどういうワインであるべきなのか。往年のスタイルではムルソーは暑い味だったが、本来はどうなのか。畑の地図を見ると、ムルソーは大きな谷の出口に村名畑が広がり、多くの畑は真東から北東方向に回り込んでいる。一級畑は丘の南側、斜面が東南に向いている場所にある。それに対してピュリニーの場合では全体が東南東を向いている。寒暖ということを考えればムルソーは村名と一級のあいだに大きな差があり、その味の方向性も大きく異なるととらえるべきなのだ。実際あるネゴシアンに収穫の順番を聞いたところ、ムルソー村名がコート・ドールで一番最後だと言っていた。北東に向いているのだから当然だろう。

 次に畑の表土を見てみれば、ムルソーには黄色っぽいざらざらした外観の柔らかい石が多いということに気付く。これは石灰岩ではなく、バジョシアンの泥灰岩の礫だ。よく見ると小さな貝殻の化石も含まれている。ロマネ・サン・ヴィヴァンやシャンベルタンで見る石と同じだ。泥灰岩のワインは冷たく引きしまった酸と流速の遅さが特徴となる。つまりムルソーの多くは、乱暴なたとえではあるが、涼しさも含めて、シャブリ(キンメリッジアン泥灰岩!)のコート・ドール版的なワインなのだ。しかしシャブリと異なり、またピュリニーとも異なり、土の色は濃い。かつては黒ブドウが多く植えられていたのもよく分かる。黒ブドウにも向く畑で白ワインを造った時に顕著となるざらざらっとしたタンニンのようなエッジ感や粒状性や苦味は、ムルソーにおいては頻繁に見て取れることである。

 レミ・ジョバールのワインからは、このようなムルソーの特徴が、外見の装いに邪魔されることなくまっすぐに伝わってくる。最初はさらーっとしていて頼りなげで楚々としていても、あとから芯の強さとしっかりとしたメッセージが残る。ある意味オーストリアワイン的なのだが、実際にセラーを見て驚いた。樽がオーストリアのストッキンガー製だった。「2006年に2樽だけ買ってテストしてみたところ、えぐみがなく、ヴァニラ風味もなく、ピュアな味だった。それから07年には8樽と1000リットル容量のフードルを買い、だんだんと増やしていった。いまではピエスとフードル半々で熟成する。2014年には3000リットル容量の大樽を買ったが、それは地域名と村名のワインに使う」。他のドメーヌでもピエスとフードルの味の違いを比較したことがあるが、ピエスは飲んだ瞬間にグイッと来るパワー感があり、凝縮度も高く感じる(蒸発量が多いから当然かも知れない)。フードルは軽やかでフルーティ。仮にオーガニックでなければ、フードルは単に飲みやすい単純なワインになってしまうだろう。しかしレミが言うように、「フードルはストラクチャーがあとからやってくる」。そのストラクチャーこそが、テロワールに直結した何ものかを感じさせるのだ。

※セラーの中でひときわ目立つストッキンガー製のフードル。

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 村名ムルソーは4種類を造る。スー・ラ・ヴェルは平地の畑らしくボリューム感があり、とろみがある。昔ながらのムルソー観にフィットするタイプだろう。一級グット・ドールの北、南西斜面にあるアン・ルロールは「ミニ・グット・ドール」と呼ぶだけあり、1級と同じローストしたアーモンドのような風味。斜面上のナルヴォーはキメが細かいミネラルと堅牢な構造。村から谷にまわりこんだ場所にあるシュヴァリエールは引き締まってすっきり。それぞれの畑に期待する特徴が素直に出ている。

 1級ポリュゾはボリューム感が村名より当然ながら上で、味にゆとりがあり、腰の据わりは弱いものの、なかなかチャーミングなフルーティさを基軸としつつも芯がある。1級ジュヌヴリエールは軽快でフローラルで品がよい。ムルソーの中ではいつもピュリニーに近い個性、つまりさらりとして筋肉を見せない味だと思う。

 どれもよい。どれも、らしい。現代ブルゴーニュのひとつの見本だと言ってもいい。しかし、物足りない。理由はひとつだ。それは彼の問題なのではなく、ブルゴーニュじたいの問題なのだ。一面的な味で、要素分解的で、立体感がない。そこからレミ・ジョバールとの長い議論が始まった。

「なぜこれで完成型のワインだと言えるのか。ブルゴーニュはテロワールのワインだというのは共通の了解事項であり、誰もがそれを目指しているのだが、テロワールのワイン=単一畑のワイン、という現在主流の考え方はいったいどのような論理的な根拠があるのか。ブルゴーニュでは特級はクリマごとに独立アペラシオンだが、一級と村名は違い、ただ一級と村名のアペラシオンがあるだけだ。アペラシオンという観点からすれば、特級はもちろんクリマごとに造らねばならないが、一級と村名に関してはむしろ畑をブレンドして、それぞれムルソー一級というテロワールのワイン、ムルソー村名というテロワールのワインを造るべきなのではないのか。仮に一級や村名でも単一畑で造ったほうがおいしいなら、それはそうすればよい。しかしおいしくなかったら、何かが間違っていると考えるべきだ。単一畑ごとのワインを造って、『これがテロワールの味です、それがおいしいかどうかは関係ありません』などと開き直るのが、本当に神に与えられたブルゴーニュのテロワールを生かす姿勢だとは思えない。結果のおいしさを実現するのは生産者の責任だ。素材がよくてそれをそのまま出したのだが料理としてはおいしくないというレストランがあったとしたらどうだろう。それは自然の恵みを正しく生かしていないと言うだろう。料理人とワイン生産者の何が違うのか」。

「しかしそれぞれのキュヴェにはそれが好きだと言うお客さんがいる」。もちろん、そうだろう。趣味嗜好はひとそれぞれだ。そしてガストロノミー的な視点からも、それぞれのワインに使い道があるというのも当然だ。しかしそれがブルゴーニュワインの本来的な目的なのか。好きというのと、ブルゴーニュとして正しくおいしいというのは別の論点だ。

※テイスティング用のサンプルはハーフボトル。2014年は瓶詰めしたばかりでラベルをまだ貼っていなかった。ちなみに赤ワインも見えるが、これはモンテリーで、3つの畑のブレンド。2013年までは別々の単一畑ワインとして販売していたが、「2014年にブレンドしてみたらおいしくなった」。モンテリーでそうなら、ムルソーでも同じ。

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 「ブルゴーニュにおいて『おいしい』と言葉は趣味嗜好を超えた普遍的な正しさ、よさを指すはずだ。なぜ格付けが法制化されているのだろうか。つまり特級ワインのもつ特性がブルゴーニュにおけるおいしさの普遍的基準なのだ。では特級ワインの味の特性とはなんだろうか。それを意識してそれぞれの単一畑のワインを飲めば、何が欠けているのかは誰にとっても一目瞭然だ。ではこれからあなたの村名ワインを私がブレンドして、特級ワインの特性をもたせるようにしてみましょう」。

 それから私はスー・ラ・ヴェル、アン・ルロール、ナルヴォー、シュヴァリエールをある法則に従ってブレンドして、彼に試飲してもらった。「ああ、確かに余韻が長くなった」。「余韻が長いワインは短いワインよりもいいワインだと我々は知っている。だからこれは好き嫌いの話ではない。しかしトータルでの生産コストは同じだ。いや、むしろ下がる。そういえば、村名ワインは斜面下の畑と斜面上のブドウをブレンドして仕込むべきだと、アンリ・ジャイエも言っていた。そうすれば味が下から上まで口の中を垂直的に覆う」。「確かにドメーヌ・ドニ・モルテは父親の代の時は単一畑ごとにジュヴレ・シャンベルタン村名を仕込んでいたが、今はブレンドしている。そしてよくなった」。

ワインを捧げる相手は、最終的には消費者ではなく、神なのだ。それがキリスト教のワインたるブルゴーニュの使命だ。ムルソー村に入れば「シトー派修道院の土地」という看板が立っているではないか。それが単なる観光客用の宣伝文句だとは思いたくない。「自分がもてる資源を最大限生かしてよりよいワインを造ることが神の恩寵に対しての誠実な感謝の表現だと思う。ジョバールさん、この村名ブレンドワインと単一畑村名ワインのどちらを教会に持って行きたいと思いますか」。「ブレンドを持っていくだろう」。「私たちは何をすべきか分かっているはずですよ」。「実は自分でも自家消費用にブレンドしたことがある。シュヴァリエ―ルとナルヴォーをブレンドしたらダメだった。シュヴァリエ―ルとアン・ルロールはおいしかった」。「それは当然だ。同じ標高の畑だけをブレンドしたらおいしくない。斜面の上下の畑をブレンドすればおいしい。一級でもそうだ。本来ならシャルム、ジュヌヴリエール、ペリエール・デュシュをブレンドするのがいいだろうが、ないものはないから。そういえばシャルムも所有しているではないですか」。「シャルムはブドウの樹が劣化して植え替えた」。「ならば模擬的にジュヌヴリエール、ポリュゾ、ナルヴォーのブレンドを造ってみましょう」。もちろんそれはあくまで模擬的なのだが、結果は単一畑ワインより上回る。ジュヌヴリエールのしなやかさ、ポリュゾの構造、ナルヴォーの上昇力が組み合わさり、立体的で多面的なワインとなる。やはり自分としては一級でもブレンドしたほうがよいワインになると思う。とはいえ、村名のように、ブレンドしなければいけない、というものではない。ブレンドによって失う個々のワインの美点もある。

ワイナリーはワインを造るだけではなく、売らねばならない。すべてブレンドしてしまったら、ビジネスとして現実的とはいえない。顧客ニーズもあれば、世の中の趨勢もある。彼の解答は、「一級はそのまま。ナルヴォーは有名な村名畑だし、個性がしっかりしていて需要も高いから、そのまま。他三つの村名畑はブレンド」。私もその案に賛成だ。

現在のブルゴーニュに見られる無条件的な単一畑ワイン礼賛風潮は、そのほうがブルゴーニュワインの本意にかなうからというより、むしろビジネス的な観点での利点から導かれたのではないか。ネゴシアン主体の時代(修道院の時代は言うに及ばず)には複数の畑がブレンドされて村名ワインとして流通していた。今でもネゴシアンは畑ごとに村名ワインをあまり造らない。しかし生産主体がドメーヌになると、限られた資源と限られた顧客数を前提に多彩なラインナップを構成する必要性がマーケティング的要請として生じてくる。その結果の、帯に短し襷に長しワインの氾濫が、果たして本当に我々のブルゴーニュワイン鑑賞のためになるのか。それ以上に、それが本当にブルゴーニュがブルゴーニュであるための思想的条件をより満たす道なのか。世の中にブルゴーニュファンは数多くいるのに、この果てしない要素分解的アプローチが生み出す問題をなぜ誰も提起しないのだろう。なぜ生産者とともに議論を深めようとしないのだろう。もちろん私は知識も経験も世の中のブルゴーニュファンの平均以下だろうから、私の設問と解答が絶対的なものだと思うはずもない。私が言っているのは、ブルゴーニュの真理とは何かを探究しようとする姿勢だ。その姿勢なくして結果のワインをおいしいまずいと言っているだけでは未来は不毛だ。<田中克幸>

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