コラム 2017.08.22

ジャパン・ワイン・チャレンジ2017

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
jwc1

 8月15日、16日、17日の3日間、ワインの審査会であるジャパン・ワイン・チャレンジ2017が行われました。私は今年も副審査委員長を務めさせていただきました。
 今回は数多くの外国からの審査員が招聘されました。今までは外国人の大半は有名人であり、テーブルリーダー(各審査テーブルの進行役、ガイド役)として来日していました。それではまるで日本人が外国人のご意見を拝聴する場だと思われてしまいます。何人かの外国の方はかつて日本人審査員のパフォーマンスをこきおろしていたのも知っています。私は日本人としての立場から、そうならないようにしてきたつもりです。外国人主導状況を揶揄されたり文句を言われる方はストレートに「私が審査委員長をやります」と手を挙げていただきたい。それは実のところ「文句」ではなく正当な批判なのですから。
 私程度の能力の人間が副審査委員長を務めている状況じたいが奇形的であるというご指摘はごもっともなことです。私はつくづく、なぜ私ごときが審査副委員長なのかと自問しています。JWCに審査員として参加されている方々は見識・知識・経験があり、知力・感性ともに優れておられるからです。それでも私が何か貢献できたのだとすれば、、ただひとつの事柄しかない。それは、私だけが何をどうすればどこがどう改善されてどういう目的が達成できるのかを言葉にしてきたし、日本人としての立場、日本で審査会をする意味を考え、意見してきたからです。
 JWCは昨年から審査員への事前説明会もありますし、今年からはトレーニングの機会まで提供しています。より正確な審査のためには重要なことだと思われませんか?それまではただ当日会場に呼ばれて、「さあテイスティングよろしく」という状況だったではありませんか。それで初めて来た人がうまく審査できないのは当たり前。それで外国人から蔑視されたらどう思いますか。それは当人がいけないのですか、それともシステムに欠陥があるのですか。誰かが声をあげずにそういう改善が自動的になされるはずがありません。

 ともかくも、いろいろな国の人が集まっていろいろな視点から意見を交わし、日本の消費者に推薦すべき普遍的な品質のワインを見極めていくという重要な目的のためには、各テーブルの半分近くが外国人という構成は有益です。また例えばイタリアからの人は当然イタリアワインについては大変に詳しいので、イタリアワインを審査する際に彼から重要な情報が得られ、また的確な視座が定められやすいのもよいことです。

 ワインの審査とは、個人の趣味嗜好・好き嫌いの集合体ではありません。あるべきワイン、正しいワインへの視点なくして、よしあしは言えません。そこには二段階の議論があります。ひとつは技術論的なレベル。つまり端的に言うなら、欠陥ワインを省くためのプロセスです。これは簡単です。次が審美的、価値的なレベルの議論です。ワインは工業部品ではないので、欠陥がなければいいワインなのではありません。ではいいワインとは何か。そこを考えないと、よくできてはいるがおもしろくもなんともない、心に訴えかけるもののないワインばかりになってしまいます。
 WSETのマーティンさんがテーブルリーダーを務めていたテーブルで、あるワインの評価について、ゴールドかシルバーかで議論が紛糾していました。そういう時には私が参加して落としどころを見つけ出さないといけません。確かにそれは欠陥のないワインでしたし、しなやかでおいしいのですが、芯が弱く、内面の構成が少し単調で、訴求力に若干欠けるものでした。私は試飲して1、2秒で「これはシルバー」という結論を出しました。JWCの制度上は、ワインのよしあしの判定(どのメダルなのか)は最終的には正副審査委員長の判断に依拠します。過去誰が委員長であれ、その判断は1、2秒で終わっています(それができないなら役に立ちません)。つまりは瞬間的な直観で判断されているということです。マーティンさんもシルバーだと思っていたようで、彼がその時言った言葉は「私も直観でそうだと思った」。

 それを聞いて大変に興味深く感じました。なぜなら彼が示してきたWSETの積み上げ式の論理構成方法では結論が出せず、しかし彼の直観ではシルバーだと最初から思っていたわけですから、直観が論理より先行しており、直観が結論に結びついているのだと、そう言ってしまっては元も子もないWSET教育担当の彼が表明したからです。むしろそれは当たり前のことです。誰であれ、何かを口に入れた時においしいかおいしくないかは、考えてからわかるのではなく、口に入れた瞬間にわかるからです。考えなければワインがおいしいかまずいかわからないのだと、そして考える方法は既に決まっていることでそれを習得しなければおいしいかまずいかを言う資格がないのだと消費者に思い込ませることが、ワインを無意味に難しくしている、そして消費者がワインを難しいものだと忌避する最大の理由になっていると思います。
 この場合、直観とは摩訶不思議な超能力のことではありません。換言するなら、感覚対象が与える多くの情報を全体として一気に受け取り、それを超短時間で整理・分析して結論を出す能力です。それは限られた人間だけの能力ではなく、全員が実際にしていることです。そうでなければ劣敗した食品を瞬時に判断して吐き出すような生理的反応もできません。この判断時間は極めて短いので、発話が追いつきません。だから結論が出たあとにそれを言語化・論理化し、人に伝えることになります。ですからワインと他の食品のあいだに何らの本質的な差異はないとしても、劣敗した食品は吐き出せばすむことなのに対して、ワインについて言語化しなければならないというところに、すなわちワインではなく言語能力部分に難しさがあるわけです。
 では言語能力が限られた人間だけに与えられたものなのか。もちろんそんなことはありません。誰でも話したり書いたりしています。そこで私は常々不思議に思うのです。なぜ人はワインのことになると言葉に詰まってしまうのか。消費者向けのテイスティングディナーで、食べ物については皆あれこれ話しているのに、私がワインについて何か聞くと、それがおいしいのかまずいのかさえ言えない。おかしいではありませんか。ワインが好きな人たちがワインを味わいに来ている会なのに、ワインについて語れないなら、何がその方々の自己表現になるのでしょう。何がその会に集まる方々のコミュニケーション媒体になるのでしょう。

 言葉に詰まるのは、膨大な専門用語の氾濫ゆえであり、その専門用語の使用を他人に強要する一部の特権的エリートの横暴ゆえです。その専門用語の共有化によって成立する共同体がワインに関する情報と言語を支配するなら、外部の人間すなわち大多数の人たちは言語能力をはく奪されるのと同じになります。ですから私は、ワインを自分の言葉で語ることが一番大事だと思っています。自分の言葉で語るとは、創造的な表現をするという意味ではなく、思ったことを言う、という一語に尽きます。誰でも何かは思うのですから、ただそれを言えばいいではないですか。それが言葉なら、通じないわけがない。
 隣席にいたある高名な醸造家の方とあるヴィンテージのワインに共通する問題点について話していた時、「何が問題ですか」と聞かれ、私は「張りがない」と表現しました。すると「張りがないとはどういう意味ですか」と尋ねられました。それは普通の日本語ですが、ワイン表現には使われない形容です。そう聞いてどんな味だか思い浮かぶ人もいればそうではない人もいるでしょう。「張りがないとは、内面の充実度の欠如であり、内側から外側に向かって湧き上がる力の欠如であり、痩せすぎて肉体的な果実感が少ないことです」と言いました(今になって思えば表面の質感のドライさ、粗さが目立つ、という点も付け加えておくべきでした)。「ああ、確かに外側の部分ばかりが目立つ味ですね」。おもしろい会話だと思いました。この会話からいろいろなことが分かります。ひとつは、もやもやとした問題点を感じる時は、自分の言語能力を尽くしてそれを言語化しなければならない。表現できなければ問題がないと本末転倒な考えをするのではなく、問題点の存在じたいは直観でわかるのだから、それをどうすれば人に伝えられるのかの方法を考えねばならない。もうひとつは、言語である以上は、その言葉の意味が直接は伝わらなくとも、その言葉の定義を与えていけばだいたいのところは伝わる。そうでなければ国語辞典は成立しません。そして、いったん言語化すれば、対象はよりクリアに見えてくる、ということです。
 「張りがない」のはネガティブな価値的表現です。「小さい」はただ「大きい」と対になる客観的表現です。張りがないのは、日本語として、いいことでないと分かりますが、小さいことや細いことにはいいも悪いもありません。ですから、何が問題なのかと聞かれて、「小さくて細い」では答えになりません。価値判断を内包する記述用語を自分の語彙の中から適切に選び出していかないと、なぜそのワインが金賞ではなく銅賞なのかを説明できません。
 JWCに参加する日本人審査員の方々の多くが抱える最大の問題は、ワインの価値を決められないことです。可能な点数の範囲は10点から20点なのに、どのワインも15、16、17点の3段階評価の中に収れんします。15点は欠陥のあるワインに与えておられるので、実質は16点と17点の二段階評価です。つまり、どのワインも、まあいいんじゃない、という判断です。それでは審査になりません。ところが外国人審査員(そして私)の点数のふれ幅は大半の日本人審査員の倍あります。ですからプラチナ賞から選外まですべて振り分けられます。なぜ日本人はどのワインも同じ点数になるのでしょうか。劣等民族だからでしょうか。もちろん違います。国民性と言われることもあります。平等意識が強いから、ワインも皆同じ点数にしたくなる。それはそれで素晴らしいことです。しかしそれを除外するなら、ふたつの理由が思いつきます。先に述べたように、自分自身の直観を自己否定している傾向があるからです。もうひとつは、審美的・価値的用語の語彙をワイン表現用語に転用しないからです。だから逆に、そこにあるものが見えず、それをつかみ出すことができないのです。では何が問題なのか。誰か責任者がいるのでしょうか。違います。このことは誰も教えてくれないし、誰かに聞くことでもありません。自分で考え、獲得する能力です。誰かに教えてもらえると思っている甘えが、この情けない状態を生み出していると、私はあえてきつく言いたいと思います。なぜきつく言うか? 日本人はワインの味がわからない奴らだと外国人に思われたくないでしょう!

 二枚の写真の説明。並んだグラスは、最終日のトロフィーワイン選定のための金賞・プラチナ賞ワインです。この中からカテゴリーごとのベストワインを選びます。楽屋裏の様子は、全員が帰ったあとの、正副審査委員長による金賞・プラチナ賞受賞ワインの再ブラインド・テイスティングです。各テーブルで選ばれた上位の賞は、 我々3人でもう一度すべてテイスティングしなおされ、外に出て恥ずかしくない質かどうかチェックされます。私は絶対にワインを吐き出さない主義なので、一日に飲む量たるや大変なものです。自分のテーブルのワインすべて、時折チェックのために人のテーブルのワインいくつか、金賞プラチナ賞のワインすべて、ですから。アルコールに強いと思われるかも知れませんが、私はケーキに入っている洋酒で気持ち悪くなるぐらいお酒に弱いのです。日ごろお酒は口にしません。ですからこれは使命感、気合しかありません。
 たまには審査員の方で酔っぱらってしまう人もいます。今年もひとりおられました。その方についてはテーブルリーダーや他の審査員の方から苦情を受けました。酔っぱらうと、酔っぱらっている自分に気づかないようです。プロとアマチュアと、ワインの知識に関しては大差ないばかりか、むしろワイン愛好家としては私ごときは初心者ですから、アマチュアのほうが上でしょう。しかし、決定的な違いは、プロは酔っぱらわないということです。酔っぱらったらプロではありません。
jwc2

  • このエントリーをはてなブックマークに追加