シャトー・サン・トマ Chateau St.Thomas
聖トマスの名前を戴くこのワイナリーは、イエスに「見ないで信じる者はさいわいである」と諭されたこの十二使徒のひとりとどんな関係があるのか、と興味津々で訪問すると、「我々オーナー家の苗字がトウマだから」。「自分の名に自分で聖をつけるのか、そりゃイカンだろう」。創業者の息子であるジョー・アサード・トウマは「それはある意味ユーモア。トウマ家はギリシャ正教の信者で、まず聖トマスに捧げたチャペルをこの地に建て、畑と醸造所が完成することを祈願し、その名をワイナリーにつけた」。
※シャトー・サン・トマは1990年創業。
レバノンのワインの味について経験はしていたが、そして地理的・歴史的な事実の概要も知ってはいたが、レバノン到着後初めて訪れたこのワイナリーの畑を実際に見て、私もまるでトマスのように、その可能性の大きさを信じるに至った。俗人にはやはり、見るのと聞くのは大違い、だ。
丘の上部にある畑にはむき出しの白亜紀の石灰岩がごろごろ。土は砂を多く含み、軽い。東向きの斜面からはベカー高原の平地とその向こうのアンチ・レバノン山脈が見える。おお、これがレバノンの畑か、この土地あってこそのあの味か、と感激した。
目の前に見える品種は何かと聞けば、ミュスカ、シラー、グルナッシュ。90年に創業してから「何を植えるべきか分からずいろいろ試してみたのだが、成功したものもうまくいかなかったものもあった」。「この土と気候を考えたら、南仏品種を植えるべきだというのは試すまでもなく分かるような気がしますが」。「それでもやってみないことには始まらないから」。ゴブレ仕立ての樹があったが、ミュスカとグルナッシュ。それはおいしそうだ。シャルドネやソーヴィニヨンやカベルネは平地に植えられているようだ。
ワインの品目数は多い。しかしなんといっても伝統ある地場品種オベイデに惹かれる。もともと創業者サイードはオベイデ品種とアニスシードで造る蒸留酒アラックで有名になり、財を成した人物。この品種には精通しているはずだ。しかしジョー・アサードは「オベイデについてどう思いますか?」と、若干自信なさげに我々(私以外にはイギリスのMWに、パレスチナ人のワインジャーナリスト他ニューヨークの人たち)に聞く。オベイデの味は国際品種のようにぴしっとしたメリハリタイプではないし、なんといっても香りが地味だ。海外の人にはどう映るのか気になって当然だ。他の人たちが「・・・・・・」と顔を見渡しているので、ここはアジア人が発言する出番だと思い、「オベイデはダ・ヴィンチのモナ・リザを思い出させる。モナ・リザには目に見える筆触がない。人物の輪郭線はなく、グラデーションで徐々に背景に溶け込む。そしてその先にはミステリアスな景色がほの暗い光の中で遠くまで続いている。オベイデの味とはそのようなものだ」。レバノン料理店のオーナーが「ずいぶん文学的な表現をするじゃないの」。それに応えて、「当然だよ、だってライターなんだからさ」。オベイデのキャラクターを表現するよりよい言葉が見つからないので、その時のやりとりをそのままここに書いた。
気に入ったのはレ・グルメ・ルージュの2013年。サンソーを主体に、グルナッシュ、カベルネ、シラーをブレンドしたもの。まるでプロヴァンスの赤ワインのような品種構成だし、土壌も似ているが、味わいも実際にそうだ。しかしプロヴァンスより穏やかで、スケールが大きいような気がする。これはエントリーレベルの商品。しかし値段は関係ない。やはり南仏品種のワインがおいしい。
とはいえ「レバノンで初めて」だというピノ・ノワールもなかなかよい。ジューシーでおおらかでやさしく甘い地中海味のピノ。畑はベカー高原の中でも大変に高い、1200メートルの標高にあるから、酸の支えがしっかりしており、高いアルコールを受け止めている。しかしなぜアメリカン・オークの樽を3割使うのかは疑問だ。そもそもレバノンは長い歴史のある産地なのだから、温故知新で陶器の甕で熟成したらどうなのか。
すると、「創業当時は樽が買えないからそうしていた。シャトー・サン・トマ(彼らのフラッグシップワイン)の二番めのヴィンテージである99年もそう」。なんと。「それを飲ませてください!」と言って、セラーから貴重な99年を持ってきてもらった。これがすばらしい。まさにモナ・リザ的なグラデーション、滲み感が素晴らしく、国際基準の造りをしている現行ヴィンテージとは比較にならないぐらいのおいしさ。余韻も今より長い。「いまいちど、この方法に戻してください!」と懇願してきた。
※石灰岩の礫に覆われた標高1000メートルの畑。
何か、まだ忘れているような気がする。そうだ、ミュスカだ。「ミュスカはどこに行ってしまったのですか」。「あれは自家消費用の甘口ワインにする」。「そりゃずるい!」。どう考えてもミュスカが成功するテロワール。おいしいに決まっている。出されたワインは簡易栓で止められているだけのラベルもない瓶に入っている。自家消費用だから清澄濾過していないのか、少し濁っている。実際に飲んでみると、このワイナリーで一番の傑作ではないか! おいしいだけではない、丸くておだやかで白黒つけないオリエンタルな味がする。背伸びせずに満たされた、ポジティブで幸せな味がする。
何が今のレバノンワインで、何が本来あるべきレバノンワインなのか。シャトー・サン・トマを実際に見て、ワインを経験すれば、誰でもその根本的な問いになんらかの答えを出すことができるだろうし、未来を信じることができるだろう。<田中克幸>