コラム 2017.01.05

Chateau Pontet-Canet

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※シャトー・ポンテ・カネは正面部分は1781年の建築だが、その後ろにはクルーズ家時代からテスロン家が所有する現在に至るまでの歴代の増築による建築が連なる。現代では一般的となった重力システムを1895年に導入した先駆者としても知られる。

 ボルドーの歴史の中で確実な転換点。それはシャトー・ポンテ・カネが2010年、格付けシャトーとして初めてオーガニック認証とビオディナミ認証を取得したことである。

2004年に除草剤使用をやめて畑面積の3割をビオディナミ農法に転換し、翌2005年にはすべての畑を転換したポンテ・カネは、悪くはなかったが特に秀でているわけでもなかった、いかにも5級相当な味のワインに顕著な質的向上をもたらした。私の記憶でも、顕著な違いが見られるようになったのは2006年から2008年ヴィンテージにかけてだ。質感の厚み、広がり、余韻の伸びやかさ、タンニンの質、酸の透明感、リズム感、、、すべてが変わった。もちろんその変化は誰もが理解できるほど大きく、それが2009年ヴィンテージに対する驚異的な高評価につながった。2009年だけではない。次の2010年もそうだ。よく知られているように、二年連続パーカー100点はラトゥール、オー・ブリオン、モンローズ、そしてポンテ・カネだけだ。

それ以前の典型的な言説では、パーカー的なものとナチュラルなものは対極に位置するものだった。物質的力強さ&分かりやすい濃厚さの高得点ワインと、霊的力強さ&漂う気配の美しさのナチュラルワイン。高級スーツを着てナポレオン三世様式の豪華な居間で乗馬の話をしながらワインをテイスティングするボルドーと、長髪と髭で作業着を着てセラーで信仰の話をしながらワインをテイスティングするビオディナミ。こうした戯画的な対比の図式が一般化していた。

しかしポンテ・カネは、この対比構造が恣意的な虚構、政治的な方向付け、さらに言うなら商売上の宣伝文句であるということを、2006年から2010年にかけての一級シャトーと同等かそれ以上というパーカーポイントによって明らかにした。これをもって、ビオディナミに対し懐疑的だった生産者も消費者も考えを改める機会を得た。生産者はビオディナミを、旧来の権威と価格の保全システムであるパーカーポイントと矛盾するばかりかむしろそれを高める格好のビジネスツールとして認識し、消費者は従来の味覚的価値尺度を維持した中での品質向上のための最適手段として認識することが可能となった。つまりは得体のしれない魔術から常識的一般的な技術になった。精神また信仰のありよう、生き方そのものと密接に結びついていたビオディナミの世俗化の流れが一気に生まれた。

もちろんパーカーポイントとビオディナミの比例的関係は1993年のドメーヌ・ルロワのロマネ・サン・ヴィヴァン等を嚆矢とするとも言える。しかしそれがいかに高得点でも、稀代の天才が生み出す超少量生産のグラン・クリュの話だった。対してポンテ・カネは5級、つまり1855年格付け最下位のワインであり、企業組織によって生み出される巨大な生産量のワインである。ルロワにはなれないが、ポンテ・カネにはなれる。ボルドーの多くのシャトーがそう思うとしても間違いではない。1990年代後半には皆でミシェル・ローランだったものが、これからは皆でオーガニック、ビオディナミということになるだろう。

これを喜ぶべきか否か。それが微妙だ。イスパノ・スイザ、ドラージュ、ヴォワザンに乗っていた大富豪は、フォードT型による自動車の一般化を見て、自動車文化は終わったと思ったかも知れない。オートクチュールの顧客はプレタポルテに対して、服飾芸術を棄損するものとして卑下したかも知れない。いまだにめったにまぐろを寿司屋で食べず、つまみと酒など論外中の論外と思うほど古典主義者である私は、あぶりチーズサーモン寿司のような珍奇な寿司ばかりかカレーやラーメンまでもが出てくる回転寿司店を見て、ああもはや寿司文化は失われたと思う。同じくルロワのドメーヌでのビオディナミ導入の頃以来の熱心なビオディナミファンである私は、現在進行中のビオディナミの手段化・世俗化過程を見て、ついにこれで変人のカルトから一般常識になると素直に歓迎すると同時に、なにかが抜け落ちてしまっているような気がすると懐疑的になる自分自身を見る。

※醸造長、ジャン・ミシェル・コム。彼は「認証なしオーガニック」には批判的で、「認証なしでは口だけだ。誠実さがない」。「人の行動と発言の違いに気を付けろ。ポイヤックで除草剤をまったく使用していないシャトーは2軒しかない。私はそれを知っている。彼らが君に何を言っているにせよ、自分の目で見て確かめろ」。 
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それはそうとして。ポンテ・カネの醸造長にして、ビオディナミ化の推進力であるジャン・フランソワ・プティに話を聞いた。

彼は1989年からポンテ・カネに勤めて17年にもなる。それ以前から彼自身がサント・フォワ・ボルドーに所有する畑でビオディナミを採用し、その効用について熟知していた。柔らかい口調だが自信に満ちて言う、「だからオーナーのアルフレッド・テスロンを説得した。それは大きな挑戦だったが自分には確信があった。ビオディナミに対するエモーションを共有し、このシャトーを変革し、実際に品質を向上させた。それが09年、10年のパーカー100点として結果した」。

ビオディナミに転換しただけではなく、「2008年から耕作に馬を使う。現在は8頭の馬がおり、畑の50%を耕作している。これから100%にしたいが、そのためには12から15頭の馬が必要となる。昔は根が50センチの深さまでしか到達していなかったが、今はもっと深い。馬で耕作すると土壌を圧迫せずにミミズが生息できるようになり、それが畑のエコシステムに重要な役割をする」。馬による耕作はある種のはやりだ。「馬だからといってジャーナリストが来るが、それは短絡的発想だ」というのは正しい。「私はその前に、何が問題で何が解決法なのかという研究を何年もかけて行った」。

とはいえ馬は伝統ではない。ヨーロッパ古来の耕作用動物は牛だ。ニコラ・ジョリーが指摘するように、馬はブドウに熱を伝える。冷涼産地ではその熱が効果的だろうが、ボルドーはそんなに冷涼ではない。馬による耕作はワインの味を温暖にする。「それはそうだが、馬は頭がよく、いろいろな仕事をこなせる。牛はひとつのことしかできない」。では人間をもっと雇ってプレパラシオン散布作業を人力で行えばよいではないか。そうすれば土壌圧迫もさらに少ない。そう言うと、「問題の解決には経済的社会的アプローチが必要なのだ。人にやらせるのは大変なことだ。理想を追い求めて変なことをしても長続きしない」。

プレパラシオンの素材である牛糞や角のために敷地内で牛を何頭か飼っているのは、大規模な農場だからこそできることだ。小さなビオディナミ農家はそういった素材を外から買い入れるしかないが、それでは自律的で循環的な農場を目指すビオディナミの考えとは相いれない。さらに興味深いのはロバを飼っていることだ。ビオディナミ農家で馬や牛は見たことがあるが、ロバは珍しい。「ロバがなんの役にたつのか」と聞くと、「ロバは何も仕事をしないが、それが役目だ。農場によいバイブレーションを与える。他の動物たちのストレスを取り除き、農場内のハーモニーと平和をもたらす」。確かにのんびりとしたロバの顔を見ると、我々人間でも思わず微笑んでしまう。ビオディナミのありように対する彼の深い考察が伝わる話だ。

ビオディナミにして何が最も変わったのかと聞くと、「ブドウそのものの質が向上したこと。自分の印象では果皮が柔らかくなり、タンニンが柔らかくなった」。それこそが多くの人を魅了するポイントだろう。ボルドー左岸のカベルネ・ソーヴィニヨン主体のワインは堅牢な構造を特徴とみなすのが普通だ。もちろん水辺のワインである以上はしなやかなのだが、しなやかでいて凛とした堅牢さ、というのが一般的な印象だ。だから古来、熟成させてから飲めとも言われてきた。ところがポンテ・カネを飲んで感じるのは、真綿のふかふか感だ(ちなみにグース・ダウンの質量なきふわふわ感ではない)。この質感に近いものを他のワインで譬えるなら、ボルドーというよりナパの超高級ワイン、ハーラン・エステートであり、ボルドーならシュヴァル・ブランを黒系フレーバーにしてより実体感を増したワイン、と表現すれば分かりやすいだろうか。
※シャトーに隣接する砂礫質の区画(写真)はカベルネ・ソーヴィニヨン、川に近い砂や粘土石灰質の区画はメルロが主体。作付け比率はカベルネ・ソーヴィニヨン65%、メルロ30 %、カベルネ・フラン4%、プティ・ヴェルド1%。ワインの味わいにどこか右岸的な要素を感じるのは、たぶん右岸的土壌とメルロの組み合わせが寄与するところだろう。
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新しいヴィンテージを飲んでも、「今はよくわからない味だがあと20年したらおいしそうだな」とは思わず、「今おいしいからどんどん飲んでしまおう」と思うはずだ。これがよいことなのか悪いことなのかを考察するのは大変に楽しいので、是非読者の方々はご友人たちとワインを飲みながら議論していただきたいと願う。「カベルネ・ソーヴィニヨンという品種の個性はどこに行った」、「ボルドーの個性を減じて新世界ワインに近づき、それを好む人たち、とりわけ経験の少ない新興富裕層にアピールするものだ」、「左岸の右岸化」等の批判的意見もあれば、「ビオディナミのワインは他のものでも皆柔らかいではないか。シャプティエのエルミタージュでさえリリース直後から何の問題もなくおいしいではないか」、「偉大なボルドーは最初から心地よく飲める。82年を思い出せ」、「かのポール・ポンタリエは『偉大なワインは熟成途中だろうがリリース直後だろうが20年後だろうがいつでもおいしい』と言った」、「そもそもボルドーの固さは農薬と亜硫酸の味なのだ」等の肯定的意見もあるだろう。たぶん、どのような意見であれ、何らかの真実を突いているはずだ。

※カベルネの樹齢は80年という古木も多く存在し、平均は35年。古木ならではのねっちりとした黒系果実とアーシーさも味わいの中に感じることができるはずだ。
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栽培に関するビオディナミは既に先達の努力のおかげである程度フォーマットが決まっている。どのようなプレパラシオンをいつ何のために使用するか等は、ありがたいことに一から自分で考える必要はない。しかし醸造に関するビオディナミは未開拓の領域であり、シュタイナーの本を見ても直接は書かれていない。亜硫酸使用量の制限等はあるが、それはオーガニックの延長であり、ビオディナミ独自の表現ではない。

栽培だけではブドウはできてもワインはできず、ブドウがビオディナミでもそのあとの工程が道を外れては「ビオディナミのワイン」の理想からは遠いというのは分かっていても、それでは何が「道」なのか。ジャン・フランソワ・プティのワイン醸造方法を聞いてみよう。

「発酵は自然酵母で2,3週間。ピジャージュもデレスタージュも行わず、以前より少ないルモンタージュのみ。ワインのコントロールを極力やめる。だからコンピューター制御の温度調整装置はなく、人の手でワインの温度を計測し、温度が高すぎる場合は冷水をかけるだけ。発酵容器は、大きな区画に関してはオーク桶。小さな区画に関しては昔はステンレスタンクを用いていたが、ビオディナミを始めてから撤去し、コンクリートタンクを新たにデザインして用いる。厚みが15センチもあり、断熱性に優れているし、上部が細くなっているからキャップが厚くなり、ルモンタージュの時にマストが通過する時間が長くなるのがいい」。現代的で標準的なボルドー製法を踏襲しつつ、ビオディナミワインとして採るべき手段を常識の範疇で考慮していることが分かる。

ボルドーは変わった、と痛感させられるのが、熟成庫に並ぶ大きなアンフォラだ。全体の70%は樽熟成だが(新樽は全体の50%)、30%は「エステート・マネジャーがデザインして特許を取得している、ひとつにつき4樽分の容量のアンフォラを100個用いてワインを熟成させる」。底部が細長く伸びているのがポイントで、そこに「澱が溜まり、ワインが対流しても澱が舞わない」。驚いたのは「コンクリート製のアンフォラの外側には畑の土を練りこんだ粘土を塗っている。カベルネ・ソーヴィニヨン用は砂利が入っており、メルロ用は粘土石灰が入っている」という構造。これはビオディナミ醸造を真剣に何年も考え抜いた人だから出てくるアイデアだ。もちろんカベルネは砂利に植えられ、メルロは粘土石灰に植えられているから、ビオディナミにとって重要なワインと大地の関係性を熟成中も保つことが可能となる。
※熟成は樽70%、特製のアンフォラ30%で行う。熟成期間は樽では16か月、アンフォラでは12か月。スーティラージュは5か月に1回。瓶詰め前には濾過のみで清澄は行わない。
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アンフォラだクヴェヴリだとここ10年頻繁に聞くようになった。その利点は何か。よく耳にするひとつの説明は、「オークと同じ微量の酸素透過性があるがオークと異なりニュートラルな風味」。それは事実に反する。オークはオークの味がするし、粘土は粘土の味がする。大事なのは、それが土だということだ。ブドウは土に根を張り、土の中で考え、土の味を伝える。ワインが土の容器で熟成するとは、ワインが自らの生まれ故郷であり母なる大地に抱かれて育つという意味なのだ。その象徴性が、ビオディナミ生産者をアンフォラに惹きつける。

しかし土ならなんでもいいのか。アンフォラは世俗化したファッション・ビオディナミの目印と揶揄されてもおかしくないほど、最近では世界じゅうのどこにでもある。上記の意味を考えるなら、その素材たる土は畑の土と連続的でなければならないが、ほとんどすべての生産者は遠い地からアンフォラを買い入れて使うだけだ。それではアンフォラは単なる物理的な容器となり、象徴性を失う。象徴性を失っても味が同じだと思うなら、それはもはやビオディナミではない。生産者はむろん、消費者もその意味をもう一度問わねばならない時期にきている。

ポンテ・カネが使用するアンフォラのワインと接する内側は、カベルネ用であれメルロ用であれ同じコンクリート素材だ。容量、均一性、耐久性、作業性、製造コスト等々を考慮すれば陶器は考えられない。では畑の土との連続性がないではないかと言われるだろうが、大事なのは連続性というメッセージをワインに与える工夫である。それは直接ワインに接していなくともよい。ポンテ・カネのアンフォラでは、砂利か粘土石灰かという違いはワインと物理的に接することのない外側にある。つまり砂利や粘土石灰は実体として直接的にではなく、畑の象徴として遠隔的に力を及ぼす。カベルネにはカベルネが心地よくなる気を、メルロにはメルロが心地よくなる気を、それら外側の素材が内部のワインに送ることで、ワインがおいしくなるのである。その解説を聞いて、そんな馬鹿な、と思うなら、ビオディナミのワインは飲まないほうがよい。ワインは自分自身を馬鹿だと思われておいしくなるはずがない。
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人の気持ちは大事だ。特に大規模組織では数多くの従業員が働くため、各自の思うところが異なり、その気の乱れがワインに悪影響を及ぼす。それはワインを飲む場でも同じだ。ポンテ・カネの場合、最初に14ヘクタールをビオディナミに転換した時、皆で「ビオディナミをやらねばならない。進化のためのステップを見出さねばならない」という意識を共有するようにしたそうだ。「それは結婚指輪のようなものだ。義務の自覚だ」。とはいえ「皆が同じことを信じているかどうかなど本当のところは分かるはずもない。だが従業員は実際に畑の中で作業しているから、ビオディナミにすることで、化学薬品に殺されることがないということが身体で理解できるようになった。だから今では多くの従業員がビオディナミを実践していることに誇りをもつようになった。彼らに支給しているポンテ・カネのロゴ入りTシャツを、オフにスーパーマーケットに行く時でも着ている。ポンテ・カネで働いているプライドを外に向かって示したいのだ」。

彼は続ける、「ブドウは我々の子供だ」。それはよく聞くセリフだ。しかしそのあとが違う。「私にとって農業は火事で燃えている家であり、子供はまだ家の中にいる。その時あなたは頭のよい子や美人の子だけ助けるため家に飛び込むだろうか。家の中から全員の子供を救うにはどうすればよいか」。火事を消すには、ビオディナミなのだ。すべての子供を救い出すという言葉を裏付けるように、ポンテ・カネではセカンドワインの比率を下げ続けている。近い将来はすべてのブドウをグラン・ヴァンにしたいとも言う。セカンドワインとは、根本的な消火をせずに美人の子だけ救い出したあとの残りだからだ。

発酵はオーク桶とコニカル・コンクリート・タンクを併用
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ジャン・フランソワ・プティがどれだけ深くまた広く物事を考え、有効な実践プランを作り、物的仕組みを揃え、人的誘因を与え、リーダーシップを発揮してこのシャトーを成功に導いてきたか、そして多くの人が言うとおりどれほど素晴らしい醸造家なのか、理解していただけただろうか。

ではポンテ・カネのワインはどの程度の品質なのかと問われるなら、94点ぐらいだ。本当に偉大なワインは、もっと余韻が長く、香りが陶酔的で、味が精妙で、高貴な印象を与えてくれるはずだ。ポンテ・カネは味の要素数が少なく、比較的水平的で、時間軸の流れのリズム感や躍動感に乏しく、高貴というより親しみやすくチャーミングで、余韻が「グラン・クリュ」というより「プルミエ・クリュ」なのだ。世の中の「一級シャトーに比肩する」という評価は、申し訳ないが間違っていると思う。しかしビフォア&アフターで見るなら、ビオディナミ以前のワインとは隔絶した次元だし、5級として見てもトップクラスだ。ちなみに2014年は、熟成中サンプルだったので断定的にすぎることは避けたいとはいえ、それ以前と比べて確実に一段階レベルが上がったことが理解できる、よりディフィニションが明快でより垂直的でよりダイナミックなワインに仕上がっている。

『ルカによる福音書』(6:4344)で、イエスはこう言う、「悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない」。実と木をそのままポンテ・カネのブドウにあてはめたら、良い木を育ててきたビオディナミ以降は良い実がなる、という事実そのものである。しかしひねくれた解釈をして、実をワイン、木をテロワールとみなすとどうか。「悪い」というのは譬えだが、つまりは5級という相対的に劣ったテロワールからは究極的に「良い」ワインはできないということだ。それがフランスワインの格付けのおそろしいところだ。

だから一級シャトーの味を求めてポンテ・カネを飲んでも希望は叶えられない。しかしイエスは続けてこう言う、善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである」。その「良い物」とはどんなワインなのかという問題意識をもって味わえば、格付け主義的評価基準では見えてこない「良い心の倉」、ポンテ・カネの素晴らしさをより理解できるはずだ。ありとあらゆることを考え直し、もう一度組みなおしていくために、ポンテ・カネはいま必須のワインである。

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