コラム 2017.01.05

オーガニック化するボルドー

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 ボルドーワインについてどう思いますか、と聞かれるのはこわい。私はボルドーが好きなのだろうか、嫌いなのだろうか、と自問せざるを得ない。もちろん、感謝している。尊敬もしている。今までの人生で、ボルドーから学んだことは大きすぎるほど大きい。ワイン評論家になろうと思って30年経つが、ボルドーなしにはそう思うこともなかっただろう。

しかし、今、どうなのか。私はどれほどボルドーを飲みたいと願っているのか。最近ボルドーを買ったのはいつだろうか。今年の11月にサン・マケール産のACボルドーの赤をパリで買った。それ以前は201512月、この記事を書くために訪問したボルドーで買った。それ以外の記憶はない。飲食店でボルドーを自分自身がオーダーした経験は、何年ものあいだ、ない。ボルドーの生産者が来日してのイベントやテイスティングにも過去十年で3、4回しか行っていない。こんな状況では、私はボルドーファンとは呼ばれない。

欲しいと思う味のボルドーはそれなりにあった。しかし21世紀になってからは単純に高すぎて買えなかった。安価なボルドーはたくさんあった。日本に輸入されるフランスDOPワインの半分がボルドーなのだから、何千種類も。皆それだけボルドーが欲しいのだろう。しかし私が欲しいと思ったワインはめったになかった。あまりに多くのワインが農薬味に思えた。一消費者としての私にとって、ボルドーワインは存在していないに等しい状況がしばらく続いてきた。

 

 ボルドーワインはなんのためにあるのか。このテーマについて考える前に、ここで言う「ボルドーワイン」には明らかにふたつのカテゴリーがあることを理解しておきたい。

ひとつはボルドー産のワインというカテゴリーである。ここではボルドーはロワールやマイポやバーデンと同じく産地を表す単純な名詞にすぎない。そしてそのようなボルドーワインはまず飲料のひとつであり、普通の食中酒であり、実体消費のためのワインである。

食中酒としてのボルドーの使用価値は、ボルドーの土地がもたらす味わいの特性それ自体にある。その性質は降水量が多く水辺に畑が位置するワインの典型であり、特に赤、さらに言うなら非石灰質土壌の赤に関しては顕著だが、しっとりしてコントラストが少なく、酸がやわらかく、水平的な形である。ゆえに、例を挙げるなら、茹でた蟹やしゃぶしゃぶに合わせるためのワイン、という位置づけになる。

もうひとつは、世界の高級ワインの象徴たる壮麗な黄金宮殿の如き「ボルドー」の意味作用をもつワインというカテゴリーである。具体的にはメドック一級シャトーやサンテミリオン・プルミエ・グラン・クリュ・クラッセに代表されるワインや、それらの傘の下にいるワインである。

この意味でのボルドーは、自らが富裕層であり支配階級に属していることを対外的に示すための、ウェブレン理論を振り返るまでもないほど典型的な顕示的消費対象である。どれほどおいしいかというのは二次的な問題であり、どれだけ多くの人がその名を記憶し、その象徴性を認識しているかというのが重要だ。ゆえに象徴性のある古典的ボルドー(一級シャトー等)の数は記憶できる程度に少なく、各シャトーの生産量は世界に行き渡るほど大きい。

また、オークションで売るための資産という意味もある。オークションハウスの出品を見れば、どのようなワインでも売れるわけではないことが誰でも分かる。ボルドーは必ずオークションカタログに載っている。そのようなものとして認知されているからである。売るために買う場合の本数は当然ながら飲む以上の本数になるため、自動的に需要を引き上げ、価格はさらに上がり、富裕という意味はさらに強まる

ウェブレンの『有閑階級の理論』から引用してみよう。「日常生活における冷淡な観察者たちに、自らの金銭的能力を見せつけるために利用しうる唯一の手段は、たえず支払能力を見せつけることである」。「都市住民はお互いに相手に負けまいとする闘争のなかで、自らの通常の顕示的消費の標準をよりいっそう高いところに設定する。一定水準の金銭的な上品さを都市でひけらかすためには、結果として、相対的にこの方向の支出をさらに大きくせざるをえなくなるのである」。素晴らしいシステムである。

 

では上記の第一の意味でのボルドーを私はどれほど必要としているか。何十年も昔ならいざ知らず、今では「水辺のワイン」はボルドーだけではなく、バルドリーノ、イギリス南部、ノイジードラーゼー、ラ・コート、マーガレット・リヴァー、マクラーレン・ヴェール、新潟海岸部、秋田十和田湖畔等、数多く認知されている。価格的にも代替可能なばかりか、より安価かも知れない。消費量がさほど変わらず、選択肢だけが膨大に増加したら、必然的にボルドーの出番は少なくなる。また、ワインコンテストの場においてブラインドでテイスティングすると、ボルドーが上位に残りにくいと経験上知っている。まずいと言っているのではない。実体消費対象としてはボルドーは絶対的な存在ではないということだ。

では第二の意味ではどうか。そもそも「おいしいから」、「好きだから」という理由で価格をまったく意識せずに一級シャトーやそれに類するワインを日常消費している人は現代では恐ろしく少数派だろうし、おおよそその消費には顕示的側面があるはずだ。もちろんこのようなボルドーは私には無縁だ。私は支配階級に属しておらず、何かを顕示する必要はなく、顕示する相手もいない。

他人事とはいえ、顕示的消費対象としてワインを使用することにはワインファンとして抵抗感をいだく。譬えは悪いかもしれないが、ある人が、ある人を、外に見せびらかす価値があるという理由でそばに置くというのは倫理的に褒められることなのか。精神への侮蔑、人権の抑圧(当の相手の人権というより、そのような価値観が一般化していることが及ぼす大勢の第三者の抑圧)であると思うし、それはそのままワインに対して該当する。再びウェブレンを引用するなら、「卓越した財に対する高い評価は、ほとんどの場合、美そのものの評価というよりも、卓越した名誉を与えるような性質に対する評価なのである。顕示的な浪費性を満たすという要請は、われわれの美的感覚のなかに意識的に存在しているものではないが、それにもかかわらず、美とは何かに関するわれわれの感覚を淘汰的に形成したり、維持したり、さらには何を正当に美と認識し、何を認識しないかに関するわれわれの区別を誘導するにあたって、制限的に作用する規範として存在しているのである。」

なぜフェイクボトルが出回るのか。なぜブショネや劣化にも関わらずラベルを見ておいしいと思う人がいるのか。そこで価値を生成しているのは必ずしも実体ではなく、象徴なのだ。内容とは関係のない表層にひれ伏すことが恥ずかしいとは思わないのか。自分がどれほどすごいのか、どれほど上位にいるのかを、既に上位だと認知されている物品(この場合、第二の意味でのボルドー)の権威を借りることで誇示するのはあさましく、また、そうしてでも尊敬されたいという精神のありようには、「座禅でもされはったらええ」と言うべきか。

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しかしボルドーにはこのふたつのカテゴリーしか存在しないのだろうか。第一の実体消費対象としては競合が多すぎる。第二の顕示的消費は時代錯誤的である。これだけではボルドーの未来はないように思える。

ウェブレンの『有閑階級の理論』が書かれたのは1899年という大昔だ。社会構成員は上中下の3階級に分けておけば十分だっただろう。しかし今では多様な価値観が存在し、多様化はますます進展している。お金があるかないかのみで社会構成員を分類するのではなく、どのような価値観を持っているか、どのようなライフスタイルを目指しているか、という指標によっても分類されねばならない。他の消費財の多くは、とりわけ車やファッションは当然ながらこれに対応して単純な上下関係ではない商品の体系を作り上げている。

翻ってボルドーワインを見ると、膨大な数にのぼる劣位のワインであっても一級シャトーを頂点とする味わいの方向性、スタイルを踏襲し、格に対応する分相応の品質を意図して作り上げ、すべてがひとつの価値観の傘の中にあるピラミッドを形成するというシナリオが存在しているかのようだ。ワインの評価軸が一元化、固定化している。格付け、価格、おいしさの比例関係は堅持され、19世紀末と変わることはない。評価軸をズラす試み、また新たな評価軸を設置してその新たな秩序の中で生きていく試みがあるようには見えない。格付け上位は永遠に格付け上位でなければならず、劣位のアペラシオンのワインは劣位であることに意味があるかのようだ。他国は言うに及ばずフランスの他産地と比べても相当程度画一化した、ファランクスとでも比喩したい一丸となったスタイルをボルドーが保持するのは興味深い。

それがボルドーのスタイルなら、各シャトーが個別に独創性を発揮させる道を選択すべきではなく、その中での秩序を堅持しつつ新たな評価軸を導入することで、全体の価値を向上させる必要がある。既存の評価軸において上位にあるワインでさえ、その地位は自動的に保障されるものではなく、上位=高価=高品質の理由づけが時代に合わせて更新されねば権威を失う。        

ここで着目されるのが、過去十数年のあいだにすっかり一般的になった、オーガニック(以下、ビオディナミを含む)という評価軸である。

1、          純粋においしさを追求する農業技術として。

2、          地球環境保全、健康といった観念に合致するものとして。

3、          生き方の象徴として。

4、          シュタイナー思想の実践として(ビオディナミの場合)。

オーガニックが実体消費のために好適であることは議論の余地がない。オーガニックのほうがおいしいからである。ボルドーとて例外なはずもなく、私としては、おいしくなるのだからますますオーガニックが広まればよいと思っている。だが私はそれほど楽天的ではない。仮に、おいしいからオーガニックが好きだ、ナチュラルな食べ物のほうがおいしい、と思う人ばかりなら、他の食品も不自然な化学物質を排斥する方向性にあってしかるべきだ。しかし現在の多くの飲食店であれスーパー、コンビニエンスストアであれ、ほとんどが化学的な添加物まみれではないか。圧倒的大多数の人がそれをおかしいと思わず、むしろそれがおいしいと思っているから、このような悲惨な、いや滑稽な状況を招くのではないか。

 私はあるミシュラン三ツ星の店に行き、「無化調でお願いします」、と言ったら、「できない」といわれた。「できるのは、茹で野菜と炒飯だけだ」と。しかたない。超高価な茹で野菜だけを食べることになった。他のミシュラン二つ星に行ったら、やはり「茹で野菜と炒飯だけだ」。あるホテルでは「切っただけの生野菜と焼いただけで味つけなしのステーキだけだ」と。それでもワインリストにはオーガニックワインが並ぶ。

 化学調味料だらけのミシュラン星付き店は、この場合、ミシュラン星付き店であるという記号に意味がある。そういう高級店を支持し、ありがたがる人たちが同時にDRCやルロワやラフォンやルフレーヴを支持し、ラトゥールやパルメやオーゾンヌをありがたがる。ますます多くの最高級ワインがオーガニック化していく中で、この矛盾は実体的なおいしさからは説明できない。シュタイナー思想やナチュラルな生き方など関係ない場合のほうが多いだろう(我々はとてつもなく奇形的な高度産業社会の都市生活者であり、それをやめない)。

 だから上記4項目が直接的、実体的にボルドーの高級オーガニックワイン生産・消費の動因になっているとは思えない。その視点からすれば、ワインにおけるオーガニックは記号である。オーガニックの思想を理解する私、オーガニックの味を好む私、地球環境を意識する私、等々を表示する、差別化と自己規定の記号である。今まで金銭的上流階級の顕示的消費対象物であったようなボルドーは、オーガニック化することで、さらに政治的に正しい知的エリートであることのシニフィアンとなり、さらなる価値を生み出し、さらなる消費者を呼び込む。マイナーアペラシオンの小規模家族経営ワイナリーが新たな道を目指して進むオーガニックより、むしろ顕示的消費対象物であり続けたワイナリーのオーガニックが目立つという現象には意味がある。よりよい私、より正しい私であるためにはオーガニックを選ぶというコードは、それがいったんコード化されれば加速し、支配的な強制力をもつ。我々はボードリヤールの言葉を忘れてはいないはずだ。「消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない。」

 他の視点を提出してみたい。ひとつは目的的オーガニックと手段的オーガニックという区分である。前者はオーガニックという生き方そのものが目的であって、ワインはその一部でしかなく、手段である。私の好きな西オーストラリアのマウントフォードやNSWのロズネイやイギリスのアヴァロンは前者の代表だろう(ああ、また訪問してみたい!)。

後者はワインの質を向上することが目的であって、オーガニックはそのための技術的手段である。ボルドーのオーガニックワイナリーは数多く行ったが、今回も含めて、考え方が手段的オーガニックであるという点では共通している。彼らはオーガニック以前にワイン生産者なのであり、ワイン以前にオーガニック生産者なわけではない。オーガニックが目的ならば、それを導入する時には一気に行うのが筋だろう。ボルドー以外ではそういう生産者がたくさんいる。ボルドーにおいてはオーガニックが一手段でしかないから、何年もかけて慣行農法と結果を比較しながらオーガニックを導入していく生産者ばかりなのである。

 もうひとつの視点は、精神的と世俗的という区分である。特にこれはビオディナミについて該当する。前者はビオディナミを、人間存在をより高度な次元へと高めるもの、超越者へと向かうチャンネルを開くもの、神の栄光を讃えるもの、等々ととらえる。エルヴェ・ジェスタンやブノワ・マルゲやビルギット・ブラウンシュタインやジェラール・ベルトラン(つまり私と気が合う人たち)とビオディナミの議論をすれば、必ずそういう話になる。

 後者は、果皮が厚くなりカビの発生が抑制される、pHが下がる、毎年の収量が安定するようになり、中長期の投資計画が立てやすくなる、等々の現世的・経済的・技術論的な話になる。ボルドーのシャトーで聖書の解釈をめぐる議論をすることはなく、霊魂不滅についての信念を聞くこともない。ボルドーは世俗的ビオディナミの代表的産地である。ゆえに、目的的オーガニックや精神的ビオディナミの立場にある人からは、ボルドーは高くは評価されないのが普通だ。

 目的的&精神的な立場のワインと、手段的&世俗的な立場のワインは、味が違う。こればかりはなんとも表現しづらいが、生命感や気迫が違う。例えば60年代のコルトレーンやコールマンのジャズと高級ホテルのラウンジで演奏される口当たりのよい予定調和的ジャズの違い、昔のジャズ喫茶でアルテックのホーンから突進してきたジャズと現在のこじゃれた高級すし店や焼き鳥店で流れるBGMジャズの違いのようなものか。誤解されたくはないが、後者が悪いとは言っていない。どのようなものも、それぞれ意味があって存在している。すべては特定文脈内での目的合致度で価値が決まると言われれば、カクテルジャズやBGMジャズは正当であり、大規模生産主体が中心の巨大産地であるボルドーの膨大な商品群には手段的&世俗的なオーガニックこそ採るべきアプローチであることは明白である。

 

ボルドーは今や巨大なオーガニック産地だ。2014年のジロンド県の認証オーガニック生産者は640軒、面積は転換中を含めて14864ヘクタール。フランス全土を見てもヴォークルーズ県(アヴィニョン周辺)に次ぐ2位だ。除草剤、殺虫剤の廃止はボルドーの既定路線でもある。例としてマルゴーのアペラシオンひとつ取り上げても、シャトー・マルゴーを始め、パルメ、デュルフォール・ヴィヴァン、ブラーヌ・カントナック、ローザン・セグラ、プージェ、フェリエール、ドーザックと、認証取得を別問題として措いても、皆オーガニックの方向にある。

ボルドーがオーガニック、ビオディナミへと向かうことがいけないはずはない。以前のボルドーは名声にあぐらをかいていたのか、正直なところ質的に見劣りするものが多かった。しかしオーガニック化すれば必ずやおいしくなる。実際においしくなっている。昔のヴィンテージは今の基準からすれば化学薬品っぽい味がして楽しく飲めない。もちろんオーガニックは地球環境にもよい。従業員の健康にもよい。オーガニックがオリジナルなきコピーとして消費社会におけるシュミラークルと化し、記号消費が本義となったとしても、個人的自覚的な実体消費の立場からすればさしたる問題はなく、おいしいものはおいしく、よりおいしいものが増えるのはよいことなのだ。すなわち、鄧小平に倣って言うなら、「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」。
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